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枝川町の歴史

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枝川町の歴史的経緯

戦前、深川区(現在の江東区の一部)塩崎・浜園にはバラックの朝鮮人集落が形成されており、東京市(現在の東京都)は撤去しようと画策していました。

1936年のIOC総会で東京オリンピックを1940年に開催することが決定され、その会場の一部として塩崎等が指定されました。

これを契機に東京市は埋め立てを終えたばかりの陸の孤島ともいうべき枝川地区に朝鮮人を移そうと計画しました。

東京オリンピックは日中戦争の激化により中止になりましたが、移住計画は継続され、1941年7月、ゴミ焼却場と消毒場しかない荒れ地に230戸の簡易住宅を建て、1,000人以上の朝鮮人を強制移住させたのです。

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生協前

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家庭でのひとこま

それは、玄関も台所もトイレもお風呂もない、工事現場用バラックのような粗末な建物でした。

枝川は埋め立て地であるのに堤防・排水などの十分な設備がなく、雨が降るたびに土地がぬかるみ、浸水に見舞われ、共同トイレの汚水が道路一面にあふれる始末でした。

さらに、ゴミ焼却場や消毒場と隣接しているため、ハエや悪臭に常に悩まされる劣悪な住環境でした。

 

管理者である都は、戦後は家賃を集めることもやめ、住宅の修理、下水道、都市ガスの引き込み、衛生環境の向上など、本来なすべき管理業務の一切を放棄しました。

そこで、朝鮮人はやむなく自費・自力でこれらのすべての管理をおこない、住環境を改善してきたのです。

 

本来、戦後補償の観点から、枝川1丁目地区は都の責任で整備されなければならず、またかつて民族の言葉と教育を奪ったのですから、戦後は政府と都が協力して民族教育の場を保障しなければならなかったはずです。

それなのに、今回の裁判は、戦前戦後の枝川地区の歴史を無視し、朝鮮人が身を削って自力で作り守ってきた民族学校をつぶそうとするもので、とうてい許すことはできません。

学校帰り

学校帰り

記念撮影

記念撮影

なお、戦前・戦後の枝川の歴史については、『増補新版 東京のコリアンタウン 枝川物語』(江東・在日朝鮮人の歴史を記録する会編 樹花舎刊 2004年10月発行)に詳しい住民の聞き書きや資料が載せられています。

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